ダニエル-バレンボイム自伝

かなり前から少しづつ読んでいた、バレンボイム氏の自伝をようやく読み終わる。

私が読んだのはドイツ語版「Die Musik - mein Leben」だが、日本語版も出ているようだ。

読んだ理由は、バレンボイム氏がランランの先生だからってことと、ハゲツル先生がバレンボイム氏を尊敬しているらしいから。

ピアノのこと、音楽のこと、ユダヤ人として生きるということ、イスラエルという国について......興味深いことがたくさん書かれている。でも、分厚い本で、バレンボイム氏が関わった一人一人の音楽家についても丁寧な描写があるので、膨大な情報量。全部をきちんと読むのはかなり大変。だから、さらっと読み飛ばしてしまった部分もある。

私が特に興味を持って読んだ部分についてメモしておこう。


ピアノ奏法について

* ピアノは右手と左手という二つのユニットで弾いてはいけない。右手と左手を合わせて一つのユニットとして、あるいは10本の指を10のユニットとして使わなければならない。

* 良い演奏とはテクニックと音楽性のバランスが取れた演奏のこと。テクニックと音楽性は切り離すことはできない。氏は機械的ななテクニック練習は決してしないのだそう。表現にはテクニックが不可欠ではあるが、テクニックだけを取り出して練習すると、音楽の本質が損なわれてしまう危険がある。機械的に練習して、表現は後から、とするのではなく、自分が表現したいことはなにか、そしてそれはどのようなテクニックを使うと実現出来るのかと考えて練習するべきだ。

* 出したい音を出すためには、一瞬前に頭の中でその音を想像できなければならない。教師は生徒に理論やテクニックを教えることは出来るが、生徒が「音を想像する」ことができなければ、望ましい音は決して出せない。


音楽と国民性について

* アメリカ人奏者は一般に、非常にフレキシブルである。ある曲を一人の指揮者のもとで演奏し、翌日には同じ曲を別の指揮者のもとで違ったふうに演奏するということを、アメリカのオーケストラはやってのける。これは、アメリカ人にとってクラシック音楽が、それがフランスの作曲家のものであってもドイツの作曲家のものであってもイタリアの作曲家のものであっても、距離的には変わりがないという事実から来ているのではないか。

ヨーロッパのオーケストラには、変えることの出来ない基本の色というものがあって、たとえばドイツのオーケストラがドイツの作曲家の曲を演奏するときには、やはり思い入れが違う。

* 言語と音楽の間には深い繋がりがある。それぞれの言語には、特有のリズム、イントネーション、メロディーがあり、それがその国民の生み出す音楽のテンポやリズム、音色、ダイナミクスに影響している。特定の楽器の音が持つイメージや意味も国民によって違う。


音楽の商業化について

* レコードが普及する以前は、音楽愛好家は自分で楽器を演奏し、能動的に音楽に関わっていたが、その後多くの音楽愛好家は聴くだけの愛好家となった。録音技術やメディアの進歩に伴い、聴き手の絶対数は増えたが、聴き手の知識はむしろ薄くなった。

* 聴き手が増えたことで、演奏シーズンは長くなり、コンサートの数は増えたが、質は落ちていると言わざるを得ない。演奏家のレパートリーは50年前とたいして変わっていない。

* 毎年、数多くの弾き手がコンクールに入賞するが、その後演奏家として成功する者は少ない。有能な演奏者の多くは、商業主義によって潰されてしまう。コンクールで入賞したばかりの演奏家は、すぐに次々とCDを出せるほどのレパートリーを持っているわけではない。しかし、CD会社に急かされて、無理矢理弾かされる。聴衆の好みに迎合させられることもある。若い芸術家は、このような商業主義のもとで、芸術家としての特権は金や名声などではなく、「自由であること」だという事実を見失ってしまう。

* 演奏家自身の実感とはかけ離れた批評家の批評というものも、考え直す必要があるのではないか。自分で納得のいく演奏ができたときにボロクソに言われると辛いし、逆に不本意な演奏だったと反省しているときにベタ褒めされるのも嫌なものである。



他にもいろいろ.......


読み応えがある本だった。
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by ongakunikki | 2007-10-31 15:42 | 音楽メモ
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